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第3回

三輪:どうもありがとうございます。それでは、みなさんがそれぞれの専門をやり始めるまでの話をしていただきたいと思います。大学に入った頃やもっと前のどこかの段階で、学校の授業だけじゃないかもしれないけれど、何かに感激したとか、きっかけになったこととか、いろいろあったんじゃないかと思いますので。

森脇:私からですか。今、急に言われて、自分がなぜ数学を始めたか、いろいろ頭の中を探ってみました。多分中学生くらいの時に、どういう問題を言われたか定かではないですが、例えば「角の三等分は作図できないんだ」というようなことを言われたんです。それで、「できないというのはどういうことなんだ。なんか、やりゃあできるんじゃないか」と思ったんです。そのちゃんとした証明は大学に入らないとなかなかわからないですが、中学、高校の頃はそのあたりに非常に興味を持って、数学を勉強したいなあという気持ちを持っていました。数学者になるなんていうことは夢にも思っていませんでしたが。それで1980年ぐらいに大学に入ってきました。当時は今に比べると非常におおらかな頃で、入ってきてすぐの授業というのが、今から考えるとあり得ないんです。あまり専門的なことを言うとみなさんちょっと引くかもしれませんけど、環とか、環上のモジュールとかというのが、一年生の一回目の授業で出てきました。

三輪:一回目ですか?

森脇:うん。で、環が体の場合は、ベクトル空間といいますと言って。それは、もうお亡くなりになりましたけども、永田先生という有名な代数学の先生で、ここの数学教室のある意味でボスみたいな方でした。その先生が授業をされて、あっという間に授業が終わってしまって。梅雨の頃には、今で言うとジョルダン標準形といいますか、線形代数のほとんどの部分をもう終わってしまって、それ以降はずっと演習をやっていました。で、大学に入って初めてやった問題が、確かシューアの補題だったと思います。そういうことをさせられました。

三輪:一回生の時?

森脇:一回生の時ですね。今から考えると無茶なんですけどね。よくそんなのについて行けたと思うんですけども、幸いにしてついていけたので、もしかしたら俺は数学が得意じゃないかと勘違いを起こしてしまいまして、その勘違いがずっと今まで尾を引いています。しかも当時は廣中先生っていう特異点解消等をされた方がおられて、この京都大学では代数幾何学というのを非常に盛んに研究しているというので、丸山先生という先生のもとで代数幾何学を勉強しました。で、途中で分類理論というのをやったんですけれど、面白い結果がなかなか出ませんでした。当時は数論的な発想で代数幾何学をするというようなことがかなり出てきた頃だったからか、今から考えると非常に無責任ですが、丸山先生がボゴモロフ不等式の数論版ができないのかねとか言われました。そんなもの僕たちには関係ない問題だと思っていたんですが、ある日何かそういうのをやるきっかけができて、やってみると何とかなりました。そのあたりから、いわゆる代数幾何学の方から数論幾何の方に移ってきて、今ではずっとそっちの方をやっています。それが簡単な今までの研究の歴史です。その原点はもしかすると角の三等分とかというようなお話から何かちょっと自分で惹かれるものがあったということだったように思います。

三輪:なるほど。さきほどちょっと「無責任」という言葉が出たけれど、それは丸山先生のこと?

森脇:丸山先生が無責任にというか、エンカレッジするために、できるとは思ってないんだけれどもやってみたら、みたいに言われて。そういう意味で、言われた瞬間は「僕には関係ないなあ」と思ったけれども、そういうのがちょっと心に引っかかっていて。

三輪:なるほど。

森脇:で、ある日、「あれっ、もしかしたらあの時に言ったのが、ここで使えそうかな」ということがあったんです。漠然と考えてたことが、ある日突然ぱさっと引っ付くあたりが、数学の非常に面白い醍醐味ですね。何かしようと思って考えてもなかなかわからないんだけど、ある日突然全然違うものが引っ付いちゃって、「あっ、これでできるんだ」と気が付いた。今ここに居るのも、その丸山先生の無責任な発言のおかげなんです。

三輪:じゃあ、山極先生お願いします。

山極:もう遠い昔の話になりますが、私は高校紛争世代で、高校時代はバリケード封鎖とか過激な活動に参加していました。生意気にね。そうするとやっぱり、人間とは何か、社会とは何かみたいなことを考えるわけです。でも、人間も社会も本質は見えない。古来、いろんな難しいことをいろんな学者や思想家たちが言っているわけですが、なんぼ本を読んでも分らない。こんなところで悶々としていていいのかと、大学に入ってきてもずっと思っていたわけです。京大を選んだのは、あの頃は留年制がなかったから自由に時間を使って学問を習得できたという理由もあります。それで、大学に入ってきて、自然人類学という講義を受けたんですよ。そうすると、最初にいっぺんだけ先生が出てきただけで、違う先生に代わるんです。そしてだいぶ経ってからその先生がまた現れた時にはもう真っ黒になってて、姿が変わってるわけですよ。

三輪:ああ、どっか行ってきた。

山極:アフリカへ行って帰ってきた。その先生はチンパンジーをやっていた杉山幸丸先生なんですが、興奮して話をしてくれて。それがものすごくかっこよく思えたわけです。ああ、学問っていうのは本だけでやるんじゃないんだと。言うなれば、現場発見型の学問に初めて出会ったというわけで、感動しました。自分の身で体験をして、その体験を通して、今まで言われていたことをエビデンス・ベイスドで見返してみたり、疑ってみたりということが可能になる。今まで常識だと思われていたことが、一旦違う世界を体験して視点を変えてみると違って見える。そこからまた新しい証拠を探そうじゃないかということなんですね。私の師匠は伊谷純一郎先生ですが、その頃私は伊谷さんの『ゴリラとピグミーの森』という岩波新書から出た本を読みました。これはもうほんとにわくわくするような本で、もうとにかくアフリカに行ってみたいと思いました。伊谷先生の研究室に行ってみるととにかく変な連中ばっかりいました。いろんな剥製がごろごろしてるし、ウサギを捕まえてきて「これを食ってやろう」と言う奴もいるし、裏の池で泳いでた鯉を捕ってきて「今日は鯉こくだ」とか言って宴会を開く奴もいるしね。とにかく自然と自分というものの間をいろいろ変えてみて、可能性を試してみて、トマス・ハックスレーの言葉じゃないけど、自然の中における人間の位置というものをもういっぺん洗いなおしてみようと。つまり、文化の立場からしか語られなかった人間というものを、身体、生物学というところから語り直してみようというのがその学問の勢いでした。伊谷さんの師匠の今西錦司先生は、人間だけに社会があるんじゃない。すべての生物は社会を持つんだということを言い切りました。まあ最初はかなり荒唐無稽な話と批判されたけれど、それを押し切って独自の理論を作り上げたんですね。今や、人間以外の生物に社会があるっていうことを誰も疑わない。その常識の変化は京都大学の学者の面白い発想から始まったと思います。若い連中はそういう動きにすごく感銘を受けて、ひょっとしたらとんでもない話かもしれないけど面白いぞという観点でもういっぺん生物の行動、特に人間に近いサルの行動を見つめ直してやろうという機運に溢れていたわけです。そういう研究室に飛び込んで、訳がわからないながら「お前ちょっとサルを見に行って来い」って言われて、長野県の地獄谷という野猿公苑に行って、かたっぱしからサルの名前を覚えて、サルの入る温泉に浸かって、サルの気持ちになるようなことをやってみたわけです。そうすると、非常に面白いことが見えてくるんです。人間にとって当たり前と思っていたことが、サルにとっては当たり前じゃない。例えば、人間は向かい合って食事をします。それは当たり前だと思っているけど、サルにはそれはできない。つまり、エサを前に2頭が仲良く座っているということがあり得ないわけです。エサは喧嘩の源泉であって、2頭のサルの間に非常に緊張をもたらすものなんです。だから、すぐさま強い奴がそのエサを独占してしまって弱い奴は手を出さないっていう、戦いを防ぐルールがある。サルの社会に入って見つめてみると、人間の社会性っていうのはそういうことを乗り越えて進化してきたんだということが納得できる。それを覚えると、じゃあもっといろんなサルや類人猿の社会を見てみたいと思うようになるわけですね。わくわくするような学部時代でした。大学に入って、一回生の時の講義ですっかり変身した野生型の先生を見てほだされたのかもしれません。

三輪:なるほど。はい、じゃあ、続いてお願いします。


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